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育児の全体像 【その1】 子育ち理論の定義

子育ち理論編
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子育ち理論の起こりは、「ハンガリー保育」のエッセンスと、全体的には河合隼雄先生の「物語理論」(「生きるとは、自分の物語をつくること」新潮文庫)からだそうです。

遠藤さんがまず開口一番おっしゃたのは「主婦」と「母親」は全く違います!!ということ。

主婦とは

生活全般をなるべく効率的に合理的にやろうとするひとであり、例えば2歳児がいたら支度する時間が長くなるから、キッチンにガードを設置し、入れなくする対応をする。

そのほかに、車に乗って特売日に買いだめする←ガソリン代や食費の節約にもなるから。

夫婦二人だけならそれでいいが、子がいる場合はこれでは全く子が育たない。

母親とは

我が子は育つことを主眼にして主婦的な生活を犠牲にできる=生活を合理的にはしない。

例えば・・・

      

  • 歩いて行けるところ少々高くても対面販売ができる個人商店。
  •   

  • 歩く:身体的成長
  •   

  • 商店に行く:そこに行こうという意識。
  •   

  • 対面販売:そこにいるおじちゃんおばちゃんと顔見知りになる。

          知っている子には優しくできる。ちょっとしたおまけが嬉しくてまた行こうとする

そして母親は卒業時期があるとのことです。それは精神的独立する頃(13歳程度)子育ちっ子は13で大人になるそうです。
ただし、社会経験は少ないので13歳以降7年間で社会体験をさせるのが父親の主たる役目。
ここで一人で社会で生きることを疑似体験して18~20歳で独立して家から出ていく。

子の「自ら育つ力」を信じ、「母親」「父親」を役割として成人まで見通した揺るぎない理論にほれぼれしてしまった私です。
そして、私はこれまで「効率」よく「無駄を省くか?」主婦してきたなぁ(私は動物占いでも「猿」キャラで、効率重視な価値観ではあるわけですが)と反省させられました。

ここに宣言します!!

私は「主婦」卒業し、「母親」となりますヾ(@⌒ー⌒@)ノ!

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Contents

子育ち理論の定義

まずは定義的なものからご紹介します。
子育ち理論=【子育ち】を【手伝う】【子育て】

【子育ち】が核

子育ち理論は遠藤さんが20年ほど前から始められたものです。子育ち理論は方法論ですから、時代と共に実践報告を受けてそのあり方は変わってきていますが、ずっと変わらないものこの「ありのまま」の姿を大前提とすること。

子はそもそも「自分のことは自分でやるという存在」なんです。

そういえば長女Sunも2歳くらいから「自分で(やる)!」と言っていました。
それを「時間がかかるから」とか「ぐちゃぐちゃにされちゃうから」とか「効率」「合理性」を重視して、機会を奪ってきたなぁと反省(◎_◎;)

【手伝う】は関心を持つこと

ありのままの姿を繰り返し「受け止めよう」としている状態のこと。
「受け取る」「受け入れる」ではない、これをすると子は「それ違うよ。そうじゃなくてこうなんだよ」と言えなくなってしまう

子:受け止められていないと感じたら「違う」と抗議できる。
親:受け止めようとしているから、「あ、間違えたね」と言う事が出来る

こうしてコミュニケーションが成立する。

子育ちと子育ての共同作業である。矛盾を持ち寄って、新しいものをらせん状に作り出そうという作業。

遠藤さん曰く「子育て」ばかりの情報発信に基本的に子を根本的に信じていないと感じる。

この言葉に「ドキッ」としたのは私だけではなかったと思います。
食事の支度一つとっても「どうせできないし」「時間かかるし」とそもそもやらせる氣のなかった私。
そんな主婦的発想に遠藤さんは「それって『あなたは家族じゃない』って言ってるってことと同じだよ」と(*_*;

【子育て】は役割を果たすこと、報酬のない仕事、究極のボランティア

「母親」「父親」という仕事である。
母親をやっている人に国が給料を出すといい。北欧のように一人育てていると月に20万とか。

母子家庭の「母」は役割のことで、性別のことではない。
「父親」は「母」をやることは絶対に嫌らしい。徹底した男社会。

「子育ち」と「子育て」は対立しているもの。この二本立てで、らせん状に変化していく。
→DNA構造と同じ。

育児=後天的DNA
生物的DNAと育児的DNAがある。

「人は二度生まれる」という言葉がある。
一度目:この世に生まれ出る出産
二度目:自分が何のために生まれてきたのか、使命を感じた時←子育ちでは13歳ころ

単に大人になるのではなく、自分の使命を自覚することの意味を含んだ「精神的自立」

この「二度目の誕生」のお話を聞いたときに、「私が求めている子育て法はこれだ!」と強く感じたのです。

私自身が両親(特に母親)を「喜ばせたい」という目的で進路選択してきた結果、「ありのままの自分」を見失い「私は本当は何かがしたかったのだろう」と迷走状態になっているわけです。

娘と子育ち理論を通して関わることによって、私自身も「ありのままの自分」と出会える気がするのです。

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子育ち

子があるがままの姿であること。

手伝う

母親は、常に生まれ出ている子の物語を【知覚で受け止めようと】繰り返し、【情動的】【情操的】物語を選び、唄える・語れる物語として子に語り返すこと。

知覚で受け止めること
  • 感覚(12感)でまず受け止める
      1. 見る
      2. 聞く
      3. かぐ
      4. 味わう
      5. 触る・触られる(タッチ・スキンシップ)
      6. 温かい
      7. 冷たい
      8. 痛い→皮膚表面的痛み(お尻ペンペン、しっぺ)によって罰を与える
      9. 圧迫→抱きしめる・抱きしめられる
      10. 平衡感覚→バランス
      11. 深部感覚→筋肉内部・関節の感覚。「重い・軽い」など。例:久しぶりに会った姪っ子を抱き上げて「重くなったなぁ」。その子の成長を感覚で受け止める。
      12. 内臓感覚→「おしっこしたい」「胃が痛い」

「感覚統合理論」
落ち着きのない子は感覚のコントロールがうまくいっていないことが多い。
ある意味治療していく。大事にしていくのは「平衡感覚・深部感覚・内臓感覚」


これがうまく育たないと、おねしょをするなど・・・

感覚で受け止める際に主に使うのは①~③の能動的受け止め。外側から勝手にできるから。
④以降は受動的。(舐められる・触られる)

ただし⑨圧迫は能動的にやった方がいいので、日課に組み込む。
→「寝る前」(夜、昼寝前)「起きた時」(朝、昼寝起き)の子が一番不安定になるとき。
後は、日常の中で子が不安定になっているときにギューっと抱きしめる。(強制落ち着かせ)

大きくなって「抱きしめる」では身体的に追いつかないときは「羽交い締め」(スポーツでいうところのタックル)となる。
これは受け止めていないとできない。
「受け止める」ことは常に意識を。

そして知覚で受け止めたものを「言語化」すること
子の物語は現象であり、言語化されていないものを言語化し語れるもの・唄えるものとする。

語り返す→「受け止めること」を強調するためにつけられている。

環境づくりで返す(時間・空間・物質(材料と道具)・付き合い方(マネと指示、労い、強制、説明)

ものがたりを語るの講義はB1講座で詳しくなされますが、ポイントは「子が」「いつ」「どこで」「何を」「どうした」という話のこと。そこには母親の分析(例えば物語のなかで”嬉しそうに”とか”悲しそうに”というのは母親の推測が入った勝手な決めつけになります)を交えることなく知覚で受け止めたことのみ「やったこと」「言ったこと」「表情」「動作」など見たまま、聞いたままをそのまま語ることです。

「受け止める」を徹底的にやれば思春期になっても全く問題はない。=強固な信頼関係が形成されるので親は余計なことをしないため。

子が思春期に親が肝に銘じるべきこと

・子に頼まれたことだけやること。
・子に頼まれないことはやらない。

子に「頼まれれば何でもやろうとするから何でも頼んで」「頼まれないことはやらないから」
重要になるのは頼んでもらえる関係ができているか?信頼関係ができているかに尽きる。

子は信じても頼れない関係だと片手落ち。
10歳くらいの子に対して、親が信じて頼れば子も頼ってくる。

育児の最終段階=信頼関係
子:頼みたいことを頼んでくる
母(親は卒業。個人と個人との関係):頼んできたことはきっちりやる。なるべくたのまれないことはやらない。どうしてもやりたいことは聞く。

母:「こうしてあげんたいんだけど、やろうか?」
子:大概断る。

断ったことはやらないように!!

※信頼関係が築かれていなくてもやることは同じ。頼まれたことはやる、頼まれないことはやらない。
 9.5歳過ぎたら、「夕ご飯作って下さい」と言わなければ作らないくらいに(暗黙の了解で「作る」状況になる)

続きは【その2】としてまた記事にします。

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