B2講座で発表したSunの物語です。
少し前になりますが、夏休み最終日に勃発したSunとMoonのトラブル。
Moonのお昼寝中にアイロンビーズで遊び新作の「りんご」を並べ終えたところで、Moonが起きてきた時の話です。
Moonは覗き込み、触ろうとします。
手を添えて一緒にアイロンをかけていきます。
私は、アイロンビーズを箱にしまうために席を外しました。
泣き声をあげたのでびっくりしてかけよると、Moonの背中に出来立てのアイロンビーズが入っていました。
立ち尽くすSun。
口元だけヘラッと笑うSun。
笑った顔のまま固まるSun。
ぐしゃっと表情を崩して、私の膝に突っ伏してワ~ンと泣き声を上げ始めるSun。
続けてギャー、ギャーっと奇声を上げながらしばらく泣き続けました。
数分間泣き続け、しゃくりあげ始めたSunに
こくん、とうなづくSunでした。
おしまい。
遠藤さんは「まぁ、母親として油断したってことですねぇ」と。
はい、おっしゃる通りです(*_*;
Moonが予定より少し早く起きてきて、アイロンも使い終わってなかったし、早く片付けなきゃ!とそちらに気がとられてしまったんですね。
以下、頂いたアドバイスをまとめました。
・片づけを優先するのであれば、上の子に指示して片づけさせる。
その場から母がいなくなれば、二人でトラブることは容易に想像できる。
ヤダというのであれば、その場で冷めるのを見ていればよかった。
・その場にいて、下の子をケアしていれば良かった。
母親が下の子をどうケアするかは上の子が見ていてマネをするので、見せた方がよい。
触られたくないものは「体を入れる・手でブロック」というのが基本。
まだ体が小さいので手でブロックで間に合う。(「強制」のうちの一つで「圧倒的体力差を使う」といういうこと)
徐々に成長してくると、手では間に合わないが、その分成長している。
・上の子を怒ったというのはしかるべき対応。そして、説明はいらず「こら!」でよい。
ちまたでよく「お母さん、怒らないで下さい」というのは間違いで、怒るべき時にはしっかりと怒ることが必要。
場面区別をして、「命の場面」の強制(8つのうちの一つ)が気迫をぶつけるということ。
その子自身を怒っているのではなく、「アイロンビーズの作品を服の中にいれた」という物語を怒っている。
それを本人は分かっているので、物語を修正する。どこを修正するか?を母親は説明せず本人に任せること。
「何てことするの?!」の「何てこと」の説明不要なのは、本人は怒られた理由がよくわかっているから。
それにもかかわらず親が説明するということは傷口に塩を塗っているということ。→それがあまりにも繰り返されると不安定になる。
説明=言葉。言葉は人を傷つけるものであるから。
Sunは現在5才0ヶ月であり、まだ言葉による説明は不要な時期。
9.5才を過ぎれば、説明は理解できる段階なので父親がそこを説明する役割。
腹を立てながら説明=叱る、感動しながら説明=褒める、叱ることと褒めることは同じこと。
(冷静に説明=教える)
6才までにあまりに言葉で傷つけられていると、6才以降の言葉での説明が必要になる時代に言葉によって過敏に傷つく子になってしまう。
=弱い子になってしまうと同時に「説明」の効率が悪くなってしまう
私はこの場面で説明はしてはいけない場面、とわかっていつつ「笑ったまま」でいることに対して腹が立ってしまったんですね。
それに対して遠藤さんは・・・
「笑っている」=真剣に聞いていないという風潮があるが、人間は緊張すると笑ってしまうもの。
怒られているときは自分が今にも崩れそうなときであり、それに耐えるために「笑って」いる。
自分を崩さないということは怒られていることを正面から受け止めていることの証拠だから笑っていてよい。
その怒りが届いているかどうか?を気にせず(成果を相手に押し付けるのではなく)、しっかりと怒れた自分自身に満足して終わりにする。
日本人の文化的に笑っていると、届いていないという受け止め(マジメな場面では「歯を見せるモノではない!」なんて指導きいたことありますよね)をするがそれ自体が変と言える。
しかし今のスポーツの現場ではそれが変わってきて、根性論よりリラックスが大事という方向になってきている。
アメリカ人が「Enjoy!」というのをマネして「頑張れ」よりも「楽しんで」という方向へ。
しかし、親側の意識がそこまで追いついていない。
部活などの試合から帰ってきてまず「どうだった?」と結果を聞くことが多い。
アメリカ人はまず「楽しめたかい?」と聞いてから、結果を聞く。
育児段階から試合なり、何かに参加した時にまず「楽しめたかどうか?」に重点を置いていく。
人生は楽しむものであるのに、日本人はあまりそういう傾向になっていない。(日本人の性質を象徴して「勤勉」なんていわれたりしますものね)例えば観光の仕方ひとつとっても、ゆったりと見て回るのではなく、なるべく多くの観光スポットを効率よく見て回ろうとする傾向にある。
「ここも、あそこも見ておかないと損だ!」と楽しむよりも、一生懸命になってしまうい「日本人は楽しむ前に必死で損を取り戻そうとする」なんて言われたりするそうです。
楽しむことに付随して成果がついてくる。(本番に強くなる)
子育ちっ子はそうなる。
→おもちゃ空間で遊んでいるときは、好き放題にできて片づけも強制されないことによって伸び伸びと自分を表現できるので「楽しむ子」になる。へらへらしているようで、本番になるとサラッとできてしまう。
遊びの中で「そうじゃなくてこっちでしょ」「こうして!」と指示を受けてしまうことにより、自由でなくなり楽しめなくなってしまう。
結果的に楽しめないので本番に弱い。
・・・以上、遠藤さんの圧巻のアドバイスでした。
A講座で、「子育ちっこは13才で使命を認識する」と遠藤さんはおっしゃっていたけれど、それはこの「とことん楽しむ」経験を生のたましいのコントロール時代(2才~6才)に徹底的にやるからなんだと分かりました。
私には、その体験が決定的に足りなかったんだと思うのです。
ここ数年ずっとその「使命」を探している中で出会った本が
この本の中ではリッチ=経済的に満たされていることはもちろん、お金で買えないようなもの、例えば運やチャンス、愛・信頼・友情などの豊かな人間関係を当たり前に引き寄せられる、天を味方につける方法などがかかれています。
それには自分が持って生まれた才能や資質(ギフト)を大いに生かすこと。
持って生まれたギフトを探す方法は10通りあり、そのうちの2つが、
- 子どもの頃から好きで自然にやっていたこと。夢中になっていたこと。
- とにかく好きで、それをせずにはいられない
とあります。
夢中になって、とことん楽しむ経験が使命につながっているんですね。
子育ちでは、その「たましい」からの衝動の遊びの場面では、親は決して介入しません。
昔は、その役割は自然(土・水・大気・光・植物・小動物や昆虫)が担っていてくれたところ。
私の夫は高山の山育ちなので、友達数人で徒党を組んで野山をかけまわって遊んでいたとか。
自然にはこうやって遊ばなければいけないっていうルールもないですし、「遊んだら片づけなさい」なんて自然はいいません。
そうして育まれたとことん遊ぶ経験は、自然が乏しくなってしまった現代っ子にはそういう環境がほとんどないですよね。
だから、その「自然」をおもちゃ空間で再現するんだそうです。
だから、片付けも親の仕事なんですね。
「楽しむ」ことが上手な子育ちっ子はいち早く自分の「ギフト」を認識して、それを活かしていくんだろうなぁなんて思いました。
そう考えると、大切なのは小さいうちから色々な習い事をさせるのではなく、
日課の安定のなかで、地域をあるくこと。
そしておもちゃ空間・机上空間を設置して、やりたい放題にさせることのほうが大事なのだなぁと思います。
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