子育ち理論の実践の3本柱は以下の通りです。
- 子の日課の安定
- 場面区別による「まね」と「指示」
- リビングにおもちゃ空間を設置
子育ち理論を実践していくなかで、肝になるのが「場面区別」だと思います。
母親は「教えない」(説明しない)存在ですが、生活場面での「指示」はするのです。
子の問いかけに対して、「まね」で返すべきなのか「指示」するのか?迷った時は「場面区別」で解決するというのが、私にとってはとても新しい視点でしたので、この「場面区別」についてまとめてみます。
Contents
育児における場面区別
子が日々過ごす日常は【命・遊び・生活・学習】は4場面に分類されます。
生活の場面
掃除・洗濯・炊事など一般に「家事」といわれるもので親が指示をして子は一緒にやる。親主導の場面。
遊びの場面
子が自由にできる場面であり、子主導で完全なる自由な空間。親は子の言うことに「まね」で返す。
学習の場面
6歳以降に登場し、父親が言葉を使って子に説明する場面。
命の場面
生命を維持するための場面。
隠れていて突然出てくるもので、命の場面ではとにかく危険を回避する行動をとれるようにすること。
その最たるものの例が災害などの非常事態。
災害大国の日本に住む以上、「安心」することなくいつ訪れるともわからない非常事態に備えて、避難経路を確認したり防災グッズを揃えたり確認したりすることは大切なことです。
この4場面は、母親と父親で役割分担があります。
違いは母親は【生活】を担い、父親は【学習】を担うということですね。
それでは次に、場面別の子への対応の仕方をまとめます。
場面別子への対応の仕方
命の場面
親には子の命を守る責任がありますので、この場面では「指示3回」→「強制」することになります。
「強制」には8つの方法があります。
- やってしまう
- 圧倒的体力差をつかう
- 号令をかける
- 「命令」はやらないこと
- おどす
- 怒る
- 罰を与える
- 抱きしめる
0歳代は「やってしまう」しかないが、自分で動き始めたら(ハイハイからでも)指示が少しずつ出てくる。
指示に言葉は不要であるからこそできる。
例:おむつ替えは場所を決める。(カーペットを敷くなどして)
おむつを替える時はタッチして、「おむつを替えます」とそこに誘導する。「足をあげます」で誘導。
これを繰り返すと、子が替えて欲しくなったらそこに行って足をあげて待っているという意思表示をする。
例:井戸をのぞき込んでいる2歳児がいた場合。
「離れてください」と3回指示しても離れなかった場合は持ち上げて移動してしまうこと。
手をなるべく広げて、ガシっと体幹を抱える(抱きしめることと似ている)ため、全く子は不安定にならない。
一定の腕力を必要とする。(毎日10回くらいは腕立てをして腕力をつけておくことを勧める)
「持って」といって「イチニ、イチニ」と声をかける。
1歳半くらいでもやる。
「こうこうこうして」と指示して「やるまで待つ」は「命令」に該当しNG!
大体時間も押してきて破綻する。イライラして親が気分の方に行ってしまうから。
生活を回すことは基本的に親がやるのもので、やっていい。しかし、それでは子が育たないので、指示を出すこと。
そこで「やる」「やらない」は子の選択→子の決断力と行動力が育まれる。
「できる」「できない」を確立するには強制的にやらせればよい。
教育がそれ。
例:雑巾がけの仕方を教える(強制的にやらせる)と、雑巾がけはできるようにはなるが「やらない」
雑巾がけの指示を出すが強制はしないでいると、その時に雑巾がけを「やらない」という選択をしたとしても、雑巾がけをする状況そのものを獲得していくので、一人になって雑巾がけをした方がいいな、という場面にくれば「やる」選択をする。
ファンタジー言語を使えば可。
伝統的に使われるのは「寝ないとオバケに連れて行かれるぞ」(早寝をするように)「おへそ出していると、雷さんにとられるぞ」(お腹を冷やさないように)
成功例:せなけいこ氏の絵本「ねないこだれだ」「いやだいやだ」(おばけの話が多いのは、元々母親だから子の好きを掴んでいる)の絵本
気迫をぶつけることで子がびっくりすることに意味がある。強制的に止まる。
参考:剣道の試合。気迫のぶつかり合い。
お尻ペンペン・あたまコツンなど内臓を損傷しないもの・脳を揺らさないようなこと(ボクシングで使われるようなやり方以外)はやっても問題ない。これは体罰ではない。
強制落ち着かせ
生活場面
「指示」すること。こういうと「指示ばかりされると『指示待ち人間になりませんか?』という誤解をされる」と遠藤さんはおっしゃっていました。しかし、一般の「指示」の意味と、子育ちでいわれる「指示」の意味とでは少し違いがある、と私は思いました。
そもそも「指示」を辞書で調べてみると・・・
- これがそうだと、指でさして、または指さすように示すこと。
- こうせよと指図すること。命令。
とあります。私の中では2の方のイメージが強かったのですが、子育ち的には1の方の意味で言葉で伝えるのではなく、具体的に何をしてほしいのか、身体から身体に伝えるのが指示です。
このことを表現する例として遠藤さんは『「指示」とは「三顧の礼」なんです』と言われます。
三顧の礼(さんこのれい)とは故事成語のひとつ。
目上の人が格下の者の許に三度も出向いてお願いをすること。 中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度訪ねたとする故事に由来する。
ですから、「指示」することは「○○しなさい!」と命令することではなく、出向いて言って「子に〇〇してください」とお願いすること。
通じないな、と思ったら一段下がって具体的に指し示すことが大切になります。
そして命令ではない「お願い」ですから子には「やる」のか「やらない」のか選択する自由があります。
ここが大事なのです!
「やらない」と言った子は頭の中でそれをイメージして、イメージ上でやってみて「やらない」を決めています。
イメージ上では既にやっているんです。
スポーツでもイメージトレーニングは非常に大事にされていますよね。イメージができていればもう「獲得」に近づいているんです、あとは実際にやってみて、繰り返すことで「獲得」していくわけですから。
子育ちっ子で料理に関する指示をずっと「やらない」と言ってきた子でも9.5歳を過ぎる辺りから突然チャーハンを作ったりすることがあるそうです。
母親からの指示によって、チャーハンを作るには、具材を刻み、卵とご飯を炒めて、具を入れて更に炒めて味付けをして仕上げる・・・という手順がイメージ出来ているからやる気になったらできるそうなんです。
そしてもう父親が登場する時期になっていたりしますから、父親が【褒める】(感動しながら説明する)ことでさらに繰り返し、上手になっていく・・・というように完全に獲得に至るわけだそうです。
ちなみに、母親は言葉を使わない存在ですから「叱る」(怒りながら説明する)ことも「褒める」(感動しながら説明する)こともしないとのこと。
一般に「褒めて育てましょう」と言われることがありますが、「褒めると子はつぶれてしまう!」んだそうです。
そのことの私なりの解釈は「えらいね」「良い子だね」という褒め言葉はその子を評価することになったり、褒め言葉が欲しいからやる・褒めてくれる人がいなければやらない・・・という、これこそ「指示待ち人間」になってしまうからでないでしょうか。
母親が使うのは「褒め言葉」ではなく「ありがとう」「うれしい」「助かったわ」という労いの言葉です。
子育ちでは【生活】(自分の身の回りの支度や家事)は指示によって6歳までに獲得することを目指しています。
獲得するとは、強制する人がいないところで、その秩序が遂行できるかということ。
強制してやらせると、強制する人がいるところではやるが、いないところではやりたい放題。
親は秩序を伝えながら、それを強制しないという離れ業をしなければならない・・・と遠藤さんはおっしゃいました。
ちょっと話はそれましたが・・・
生活場面では、親はとにかく動作を細分化し今すべきことを指し示し、かつその行動をとるかとらないかの決断と行動は子に委ねるということなんですね。
遊びの場面
遊びの場面は完全なる子の自由な空間ですから、親の対応は「マネで返す」ことです。
6才までの時代は知識として正しいことを知る事より「自分で考えて、ありのままを受け止めてもらう」ことの方がはるかに重要なことなのです。
先日も我が家のSunも地域を歩いている場面(遊びの場面)でシクラメンを発見して
母親は子が発したありのままの姿を受け止める存在であって「これはね、シクラメンっていう花なんだよ」とは教えません。
正しい知識は学校に行けば否が応でも沢山入ってきますし、そもそも大人は「教えたがり」なので、母親以外の大人が修復してくれるのです。
また、おもちゃ空間にも基本的には入りません。
講座受講前にOBのHさんから遊びでの「マネ」についてこんなお話を伺いました。
子が入ってと言ったら「入りますね」と入り、「おなべ持って」と言われたら「おなべもつね」と持ち、「お玉で混ぜて」と言われたら「お玉で混ぜま~す」と混ぜる。
ですから親の方が「はい、カレーを作りましょう」「材料はニンジン、ジャガイモ・・・切って、混ぜて・・・」と遊びを主導してはいけないんですね。
大人のやることは面白いので、大人がいなければ遊べない子になってしまう、と。
これはかなりのカルチャーショックでした。
それまでの早期教育視点から「おもちゃ(教具)を与えるときも子を育てるためにいかに母親が「働きかける」かが大事」と言われてきましたので180度違う!とびっくりしたわけです。
・・・と話が逸れてしまいましたが、「マネで返す」は「言葉」に限りません。
0~2才前のくらいの言葉でのやりとりではない子達には動作で「マネで返す」ことになります。
例えば、Moonとの地域を歩く(遊び)時間には、Moonのすぐ後ろを歩きMoonのマネをします。
しゃがんだらしゃがみ、同じものを見る。飛び跳ねたら一緒に飛び跳ねてみる。「あ!」と言ったら「あ!」と言う・・・などです。
母親は「マネで返してくれる」=ありのままを受け止めてくれる存在であるからこそ、子は自分の本心を表現できるのですね。
学習の場面
7歳以降に登場する父親の役割となります。(父親不在だったとしても子は、社会から尊敬できる人を見つけてきてその人から学ぶそうなので心配ないとのことです。)
父親は言葉を尽くして「教える」「説明する」ことです。
文化的(宗教・芸術)、社会的(政治的・経済的)、自然的(物理的・数学的・生物的)物語など、父親の得意分野を物語として子に語ることです。
こう書くと難しそうですが、遠藤さんは「パチンコが好きならば、その歴史や仕組みを語ればいいんですよ~」とおっしゃっていました。また、父親的過去の物語、特に思春期頃に何を考えていたのか、とか挫折体験(こうしたかったけれど、こういう理由でできなかった)というのを積極的に語って欲しい、とのことです。
それは成功体験を語ることはどうしても自慢話になって、子が親を越えられない・・・と感じてしまうことになるからだとか。
また、「叱る」「褒める」も父親の役割です。
【叱る】=怒りながら説明する。
【褒める】=感動しながら説明する。
難しいことはよく分からない・・・と不安がる旦那さんにはとにかく「言葉を尽くして欲しい」と伝えておくことが大事だそうです。
さいごに
えんどう豆の会でお話された例です。
ドラッグストアに出かけるために、車に乗りました。
もうすぐでお店に着く、というそのとき子が「〇〇ドラッグは、右?左?」と聞いてきました。
さて、この場面では「マネで返す」のか「右か左か答える」かどちらかわかりますか?
正解は「右か左か答える」です。
なぜならこれは「生活場面」であるからです。
また、遊びの場面で「〇〇ってなあに?」と言われて「〇〇って何だろうね」とマネで返しても収まりがつかなくなった場合(5~6才の小人後期によくあることだそうですが)は、「お父さんに聞いて下さい」と「教える」役割である父親を登場させることも一つの手である、とのことです。
我が家のSunも私がマネで返していて、どうしても知りたいことだと先回りして「ねぇ、お父さん教えて」って聞きに行っています(;・∀・)
何にしても、場面区別なしに子育ち実践はないな、と感じています。
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