私が、子育ち理論の肝ともいえるのではないかと思うのが「物語」の概念です。
子の物語とは、「子が」「いつ」「どこで」「何を」「どうした」ということを母親の勝手な決めつけや分析、説明なしに語る・・・
つまり子が「やったこと」「表情」「言ったこと」「動作」を見たまま、聞いたままの事実を語ると言うことです。
私の指示の出し方、それを受けて子がどういう動きをしたのか、まねで返した時に、子はどういう言葉を返したのか・・・実践の姿がそのまま表れます。
(B2講座以降、毎回子に語り返した物語を遠藤さんに発表してアドバイスを頂くのですが、皆さんの実践の様子が分かって参考になりますし、どの物語に対しても的確にズバリと応える遠藤さんの分析眼だったり、そこから派生する世の中の状況や歴史を読み解くこぼれ話には感服させられています。)
A講座の中で、子に対して日々生まれる物語を選び語り返していくことで子は「一人で生きているのではない、全体のなかで生かされている自分、自分以外のことと全てつながっているという身体感覚を育むものだ」と遠藤さんはおっしゃいました。
だからこそ、子育ちっ子は「13才で大人になる=自分は何のために生まれてきたのか、使命を感じる」のでしょう。
Contents
年代別の物語
0~1才
子から生み出される物語を「うそうた」「わらべうた」で返す。
2才~
- 「うそばなし」を作って、寝る前に語る。面白くなくていい(上手にやろうとしなくていい)、むしろ面白いと興奮して眠れなくなる。
- その場の物語をその場で語り返す
- 現在進行の物語を後で返す。
例:転んでしまった子に対して「転んだね~」と返す。
子は転んで痛くても「転んだね~」と言われてググッとこらえたりする、こういうことの繰り返しで強くなる。
やりがちなのは、マネで返すつもりで転んだ子に「痛い」と言っていないのに「痛かったねぇ」ということ。
→痛いかどうかは子が感じるところであり、親の推測が入る。
返すときは見たこと・聞こえたこと・匂ったことの感覚で受け取ったもののみを徹底すること。
よく転んだ子に「はい、痛くない痛くない。泣かない泣かない、男の子でしょ?!」と言っている光景を目にしますが、これをすると子はどんどん弱くなっていってしまうそうです(;´Д`)。
例:布団に入ったときに「今日のお話」として語る。
6才~
母親が語る
- 直系的(お父さんお母さん・おじいちゃんおばあちゃん)の過去の物語
- 傍系的(おじさんおばさん、いとこ)の過去の物語
- 地域社会的(近くの神社のいわれ、昔こういうことがあってね)過去の物語
説明ではなく、語ることを意識すること。
遠藤さんが感動した算数の授業に設問があったそうです。
「10個のリンゴを持った子が、帰ってきたら5個でした。5個どうしたのでしょうか」
普通の授業だと「5個のリンゴを持った子が1個拾って、2個貰って、帰ってきたら何個でしょう?」と部分として切り取ってしまうことによって「8個」いう正解しかないところ、その中身を語ってくれという全体性を大事にして、全ての子の答えが違うという見事さを感じたそうです。
日本の教育には圧倒的にこうした全体としての戦略性(全体性)を育むことが欠けている・・・と、何年も前になりますが教育現場にいた私ですがそういう視点はなかったなぁと考えさせられました。
9.5才~
父親が語る
- 文化的(宗教・芸術)
- 社会的(政治的・経済的)
- 自然的(物理的・数学的・生物的)
- 父親的過去の物語(思春期に何を考えていたのか)
こう書くと小難しい感じですが、要は父親の得意分野を語ればいいそうです。「パチンコが好きな人なら、その仕組みや歴史を語ればいいんですよ~」と遠藤さんはおっしゃっていました(*^▽^*)
挫折体験(こうしたけどこれが原因でできなかったんだ、の方が通じる。を聞くと本人は奮い立つ。
逆に成功体験を語るとどうしても自慢話になる。これは子が親を越えられないことになるので害悪なので避けること。
13才~
- 子が語る未来の物語
- 父が期待する未来像
- たとえ話(イソップ物語など)
「将来はこうなりたい」と子が語るのは、子が自分のなかにいれていく=信念になる物語
例えば「肉をくわえた犬」の話の場合、6歳以前の子は未熟なために訓育的部分は受け取れないが、13歳以降は「欲をかくとろくでもないことが起こるよね」と訓育部分が機能する。
さいごに
最初は「物語」という言葉自体、日常生活においてなじみのない言葉だったので(・・?という感じでした。
でも考えてみれば、普通の日常生活も映画のストーリーのように自分の「人生」という名の一つの作品と見ることができます。
そのワンシーンを切り取る様に、子の物語を語り返すこと。
私にとってそれは、今までとは違う視点で子をみる目をもらった感覚でした。
子がかんしゃくを起こした時、姉妹でけんかしているとき、これまで私だったら自分の思い通りにならないから、とイラついてしまうような場面でも「物語」のワンシーンとみることによって、気分に支配されにくくなったのです。
映画でいっても、何も事件がおこらない作品は見ていても面白くないように、ちょっとしたトラブルは淡々と同じリズムで流れる毎日のスパイスのように「これはいいネタができたぞ」なんて捉えられたりします( *´艸`)
登場人物にどっぷりはまり込むと見えなかった景色も、それを語るというプロデューサー的視点を手に入れ、私の見える景色は確実に豊かに、そして穏やかになったと感じるのです。
次回は「物質に入れる物語」についてまとめてみます。
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