大阪の枚方市樟葉という地に、
私の理想とする教育を提供する「ミスターステップアップ」という
大学受験塾があります。
そこの卒塾生である大学生スタッフは、
入塾希望者との対話の際に、ガチガチに固まってしまい
気まずい空気が流れてしまうことを悩んでいました。
かたや講師の先生は、
訪れる受験生から
・何を求めて塾に来たのか
・どんな背景を持って生きてきたのか
・受験を通して光あふれる未来に歩むには・・・
と対話をし、魂レベルで子を導かれていたそうです。
その姿を目の当たりにしたスタッフを
講師の先生にどうしたらそんな対話ができるか相談しました。
その時に、アドバイスされたのはこんな言葉だったそうです。
「私もかつてはそうだった。
でも、そんな時に先生からこういわれたのよ。
”運慶・快慶”って知ってるよね。
東大寺の【金剛力士像】を立てた人。
運慶・快慶は
「仏を創り出す」わけではなくて
”仏は木の中にすでに埋まっているから、
あとは人の手で彫り出すだけだ”
という感覚で仏像を創っていたんだって。
受験生と話すときも同じ。
「教えなきゃ」と思うとしんどくなる。
「この子の中には、すでに受かるための高い感覚は全て備わっていて、
”眠っている”だけ。
その感覚を妨げているものを除いてあげるだけ」
これまでそのスタッフは
「私が教えなければ。」と力みがあったから緊張していたけれど、
訪れた受験生のなかに「すでにそれはある」前提で接したら、
自然体で話せるようになったそうです。
このお話は、私が子育ちに出会ったときに感じたこと
そのままだなぁと思ったのです。
それまでの私は「賢い子に育てねば!」というナゾの力みがありました。
だから0才3か月だったSunに早期教育を始めたわけです。
そのカリキュラムに追われる日々に疲れ切っていたSun2歳半の頃。
3歳で妹から「子育ち理論」っていうのがあってね、
と聞かされた時は、興味は惹かれるけれど、
これまで私が、お金も時間も労力もかけて、
必死に積み上げてきたものを全否定されるようで、
なかなか受け入れ難いものでした。
それでも、Sunの吃音発症もあり、
認めざるを得ない状況になり、しぶしぶ方向転換。
そんな時に愛知県刈谷市に転勤になり、
岡崎への会場に通える距離になり、
2017年に子育ち講座を受講したのでした。
Sunは年中(4~5歳)、Moonは2歳の頃でした。
講座後半頃に「どんぐり倶楽部」とも再会し、
日課に組み込んだのでした。
理論を身につけるには、「守破離」が基本。
まずはキッチリと型に通りにやること。
日課の安定から始めました。
歩きたがらないMoonは外に連れ出したものの、
アパートの前で
「あるけない~~~」と泣きじゃくるMoonとともに、
駐車場に座り込む日々。
遠藤さんから「散歩」は歩くことで、
脚を鍛える目的はあるけれど、
無理に歩かせる必要はないんですよ、
なんなら外に出るだけでいいんだ、なんて言われたっけ。
危なっかしくて、包丁もあまり持たせていなかった年中のSunに
包丁を持たせて、トマトを真剣に切る姿に感動して、
写真をとったらSunの気が散ってしまい、
指を深く切ってしまって、慌てて病院に行ったことも…(;´・ω・)
そんな講座中は「守」で、
遠藤さんからアドバイスをもらっていきました。
そして講座修了後は、
型通りから徐々に「守破離」の「破」の段階へ。
今に至ります。
Contents
「子育ち」も「どんぐり」も共通するもの
両方とも守るべき「型」があります。
そして何より、大きく共通するのは
「子は自ら育つ」
という理念があること。
それは運慶・快慶は「仏はすでに木の中に埋まっている」と言ったのと同じように、
子にもすでに自分の中に「育ちのプログラム」がなされているのだと感じます。
早期教育では全くない視点でした。
私が躍起になって取り組んでいた早期教育では、
「文字」や「数」など抽象的なものを
教え込み、「できるように」させます。
でも、もっと大事なことは
「感じること」
「味わうこと」
「楽しむこと」ができることなんです。
とくに、これからも時代はゼネラリストではなく、
スペシャリストが求められる時代です。
その子の「得意」を伸ばしていった先に、
社会生活基盤が作られていきます。
どんぐりではこれを「感味力」と名前をつけていたりします。
目の前にあるものを味わい尽くし、
感覚を研ぎ澄ませて、物事を追究していきます。
私がSunに施してしまった早期教育では、
感情を殺してしまうようなやり方スレスレだったように思います。
だからこそ、Sunは吃音というやり方でNoを教えてくれた。
人は「感情の生き物」と言われます。
その感情を殺すような教育は、あってはならないのです。
学校は秩序が重んじられる場です。
学校という場は担任の先生によっては「感情」を押さえないと
生きていけない場であるかもしれません。
秩序と自由のバランス。
子育ちでは生活が秩序に当たります。
「どんぐり」では、5歳以前の秩序をつくる部分があまり明文化されていません。
子育ちがそれを補ってあまりある部分だと感じています。
Ocean(3歳11か月)との帰り道
いつも保育園が終わると、大人の足で5分ちょっとの道を、
30~50分かけてゆっくりゆっくり帰ります。
昨日はいつも覗く水のない側溝に座り込んだOcean。
びっしりとアブラムシのついたカラスノエンドウに、
ガガンボが止まっています。
ほらみて、おっきなムシがとまっているよ。
え?どこ。
ほら、ここ!
あ、ほんとだ。
うごかないねぇ・・・。
止まったまま動かないガガンボ。
あ、わかった。かぜがふいたらうごくのかな?
じっと風をまちます。
う~ん、かぜがふいても動かない。
すると、もう一匹ガガンボが飛んできました。
あ、もういっぴききた!
大きいな。
おかあさんかな。
あ、わかった。
今とまっているのはあかちゃんなんだ。
あかちゃんだからうごかないのかな。
おとうさんもくるかな。
なんて、ブツブツ・・・。
Oceanのなかでストーリーが展開していくのが非常に面白い!
Oceanなりの理屈もあって、なぜそうなのか考えているのが分かります。
「感味力」をつけるには、
こうしたゆったりとした時間が絶対的に必要です。
私は「子育ち」と「どんぐり」に出会い、
それまでミスターステップアップの大学生スタッフのように、
「私が育てなきゃ」と時間に追われ、
ガチガチに緊張していた毎日だったな、と振り返りました。
でも、違ったんです。
「子は自ら育つ」
日課を整え、秩序ある生活を繰り返し、
マネで返し、ありのままを受け止める。
子の中にある「仏」が目覚めるように、
私ができることは、
それを妨げるようなものを環境設定しないことだけ。
なぁんだ、自然体でいいんだ。
と私自身も肩の力が抜けました。
だから、「子育ち」と「どんぐり」には感謝してもしきれません。
私は、そのご恩返しと思って、また今日もこうしてブログをかきました。
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