2学期が始まって1か月、
運動会を次週に控え、練習も大詰めだった10月8日(土)のことでした。
Sunが朝8時になっても起きてこない・・・。
2学期に入って、寝起きが異常に悪くなったSun(小5;11歳1か月)。
私はその原因はたくさんの宿題や、
運動会で踊るソーラン節の練習、
来年度の鼓笛(この地域では6年生が2学期に鼓笛隊を披露する伝統がある)に向け、
オーディションなどが沢山あったことによる疲れだと理解していました。
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疲労の原因
しかし違ったんです。
夏休み終わり頃から、こちらの記事でも紹介した「Sun(11歳)の日課と英単語学習」ように、
寝る前にスマホ(私のお下がりのスマホを譲る。Wi-Fi環境下でしか使えない)
で音声が聞けるドラえもん英単語のサイトを使って、
英単語の勉強をする日課を始めました。
それと併せて、英語学習アプリの「Duolingo」を使い始めました。
これにより、必然的にスマホを手にする機会が多くなりました。
寝る前に自室の机でスマホを使って英語の勉強をする・・・
その後でYouTubeを開き、毎日1時間程度視聴していたことが発覚したのです。
なぜ分かったのか?
それはSunにスマホを渡す際にフィルタリング機能として、
「ファミリーリンク」を設定していたからです。
このアプリの機能により、
設定した子のスマホでどのアプリを何分使ったのかが表示されるのです。
私はこの1か月学校での疲れが原因で朝起きられないと思っていましたが、
そうではなく、単純にYouTube視聴による睡眠不足だったのです。
私はMoonとOceanと21時には寝てしまいますし、
夫不在のために、Sunが22時過ぎまで起きてたとしても気づかない状態だったのです。
「信じてたのに、裏切られた」という気持ちでいっぱいになりました。
ファミリーリンクの履歴を見せ、
Sunに「どうしてこうなった?」と聞いても、泣くばかりのSunでした。
子育ちにおける【メディア空間】の考え方
ここで子育ち理論における【メディア空間】
いわゆるメディアとの付き合い方についてご紹介します。
私が子育ちを受講した2017年当時は机上空間の一部として考えられていましたが、
のちに【メディア空間】として独立しました。
このお話はえんどうまめの会にて遠藤さんから断片的にお聞きしたものです。
以下遠藤さんのお話です。↓↓↓
人間の変化は社会変化をなぞると言われる。
生物の進化に学ぶ子育て、
また人間の歴史に学ぶ子育てが「子育ち」
メディアとはメッセージ(意図をもった発信)であり、
マッサージ(循環を目的にしたもの)である。
古い順番から与えていくのが、一番の近道。
メディア論を展開したマーシャル・マクルーハンも、
「同じ情報を色々な手段で受け取れた方が豊かになる」と言っている。
メディアの発生順とは、
わらべうた→
うたと語り→
活字(本)→
写真(映像)→
映画(ここまでが閉じられた空間)→
電話→
ラジオ(受け取る情報が濃密)→
テレビ・ゲーム→
パソコン→
スマホ(喜怒哀楽の情動のコントロールが確立した13歳以降に出現)
の順に与えていくのが適切だと考えられる
==========
以上の理論と照らし合わせて考えてみます。
PC代わりに家族共用のタブレットをリビングに置いたのは、Sunが小4の時でした。
使うのはリビングでのみ。
SunはLINEのアカウントを作成し、祖父母や叔母などとトーク。
お小遣いでスタンプを購入することも体験。
タブレットを落下させて壊し、しばらくはタブレットなしになりました。
小4の3学期(2月)に私のスマホをお下がりにしてタブレットと同じように使うようになりました。
使い方は同じくリビングに限っていましたが、
今回英語学習を自室ですることになり、スマホを自室に持ち込む流れになったのでした。
喜怒哀楽の情動のコントロールが確立した13歳以降・・・という条件からすると、
目下思春期突入中で、
「畳んだ洗濯物しまって下さい」みたいな日常の指示も
「はいはい、今やろうと思ってたのに、ガミガミいうからやる気なくなったわ」
とか腹立つ返しをしてきたりするSun(;´Д`)
かと思うと「ギュってしてよぉ」とか大きな身体で甘えられると、
内心「カワイくない態度とっててギュなんてできるかぃ!!」
と揺れる私がいます。
母子ともに、メンタル大揺れのこの時期に自室にスマホ持ち込みは早かったのかもしれません。
考えてみれば私自身も疲れているときは特に、
ダラダラとインターネットサーフィンをしたり、
YouTubeで次々に興味を惹かれる動画を見てしまったりすることはあります。
「スマホは私たちの最新のドラッグである」という刺激的な章もありますが、
無意識に使うといかに危険であるかをSunにこの本を渡して、話しました。
大人だってコントロールが難しいことも。
私自身そうならないためにしている工夫も伝えました。
・通知を減らす
・検索には広告やトピックの多い「Yahoo!」は使わない
・YouTubeを開く時は「○○を見るために開く」と目的をはっきりさせてつなぐ
などです。
ダラダラスマホによって奪われるもの
今回Sunの行動で問題だったことは、
睡眠時間を削ってYouTube視聴したことで、朝起きられなくなり、
疲れやすかったり、イライラしやすくなっていたことでした。
寝際のYouTube視聴を止めて1週間。
最近の調子はどうか尋ねたところ
朝すっきりと起きられるようになった。
それと、あんまりため息をつかなくなったかな。
と言っていました。
神経学者の青砥瑞人氏は著書の中でこう言っています。
教育の本質的な目標は自らの力で自分を成長させられる術と、
幸せな状態をつくり出せる術を学んでもらうことだと第1章で書きました。
その両方の実現に不可欠な「状態」が心理的安全性であり、
不可欠な「スキル」がメタ認知能力です。
(中略)
~メタ認知とは「自己を俯瞰的に捉え、自己について学ぶ機能」のことです。
ポイントは2つあります。
ひとつはやはり自己の捉え方です。
自分の内面、つまり自分の思考パターンや行動パターンをはじめとする
自分の脳の特性や、自己変容の軌跡などに意識を向け、それらを俯瞰的に捉えることが
メタ認知において絶対的に不可欠です。
世間でもメタ認知についてさまざまな解釈が存在しますが、共通しているのは自分自身を対象化し、もうひとりの自分がそれを見ているような感覚で自分を捉えるということです。
しかし自分を俯瞰視するだけではメタ認知の「スキル」としては物足りません。
それが2つ目のポイント。「自己について学ぶ」です。
自己と向き合い、そこで得た情報を脳の中に記憶痕跡としてしっかりと書き込んでいくことが、メタ認知の本質的意義であり、役割ではないかと思うのです。
(中略)
自分と向き合う習慣のない人ほど他責になる
(中略)
このような他責の発想も結局自分と向き合う習慣がないがために、「自分の責任かもしれない」「自分にできることがあるかもしれない」
といった発想が湧いてこないのです。
他責は生まれ持った性格などではなく、単に長年の脳の使い方による「癖」です。
(中略)
子どもが当事者意識をもった大人になれるかどうかの分かれ道は、
結局のところ「どれだけ自己と向き合ってきたのか」の経験値によるところが大きいのです。
内省が難しい理由
(中略)
人間以外で内省ができる動物はほぼ皆無だと言われているくらい高度な脳機能であり、
それだけ脳への負荷が大きいからです。
(中略)前頭前皮質の後方にある全ての脳の部位を対象に、情報を検索したり、動かそうとしたりするのです。
だから多くの人は内省をしようとしても、脳が疲労することを敬遠して自然と思考を止めがちなのです。
もう一つの理由は第1章で述べた人間の意識の限界です。
(中略)
必然的に我々が持っている自由な時間は、ひたすらこま切れの外部情報のインプットに向けられることになり、内部情報(自己)と向き合う時間は減りました。
外部評価依存になりやすい自己自分と向き合う機会が少ないと、必然的に自己に関する情報は外部情報に偏ることになります。
先生や親からの評価や、クラスメートからの評価、SNSでの評価。
(中略)一概に悪いわけではなりませんが「自分ってこうだよな」と内省する暇もなく
「あんたってこうだよね」という情報ばかり浴び続けていれば、
それが脳のなかでの唯一の「自分情報」になってしまうことは十分ありうる話なのです。
相田みつをさんの言葉で私が好きな名言があります。
「他人の物差し、
自分の物差し、
それぞれに寸法が違うんだな」まさにその通りで、他人の物差しで自分を知ることは大事な情報ではあるものの、
自分の物差しで自分をみることもできるのが人間なのです。
外部評価に依存する形で自己が形成されていくと、結果的に周囲の意見に流されたり、人から何を言われるかを気にしすぎて積極的に行動が起こせない脳になってしまいます。
「自律する子の育て方」第3章メタ認知とはなにか 青砥瑞人 P148-158より抜粋
非常に不安定な状態であり、それをこじらせると「自己を見失う」ということにもなりかねません。
それを防ぐためにも子どもたちに自分と向き合う機会を与えていく過程で、その子の好きなもの嫌いなもの、大事にしていること、こだわり、得手不得手、やりたいこと、よろこびを感じることなど、本人なりの物差しをつくっていけるようにサポートしてあげることが大切です。
それは別に難しい話ではありません。
ベースとなる考え方は
・大人の物差しを子どもに押し付けない
・子どもの物差しを否定しない
実はこれだけの話なのです。
スマホによって奪われるものは「何もない時間」と「自己にむける意識」だと感じました。
大人は「何もない時間」をなにか「有益」そうに思えるもので埋めてしまいがち。
でも「暇」という時間の余白があるから「何しようかな」と考える。
そこで選択するのは自分が好きなこと、やりたいこと。
休みの日は、リビングが工作物(紙切れ、段ボール)やら、ビーズやらが散乱し、
片付けの永遠ループになり、
私としてはイライラしてしまうような光景が広がります。
でも、やっぱり大事なんだな。
母親の仕事の一つとして、頑張っていこうと思いました。
そして、引用文章最後の「ベースとなる考え方」の部分について、
昨日のSunの発言を紹介します。
ダイニングテーブルで宿題を済ませ、学校の準備をしているSun。
私はね、学校で過ごすときに一番大事にしているのは「時間」なの。
10分休みには、次の時間の準備をして、水分補給して、
たまにトイレに行ったりするだけで、誰とも喋らない。
おしゃべり子も多いけど、私はそれはしないんだ。
誰とも喋らないんだねぇ。
時間厳守!ね、なるほどね。
休み時間に誰とも喋らずに一人で過ごすことが多いのかしら・・・?
と心配にならなくもないですが、
今日の帰りは、近所のお友達と女子トークで盛り上がり、
帰宅するのが遅くなったりしていました。
学校という枠の中で、彼女は彼女の物差しをもってその場において
もっとも相応しいと思う行動を選択していることが伺われます。
青砥氏のいう「大人の物差しを押し付けない、子の物差しを否定しない」とは、
「マネで返す」ということで実践できます。
また、俯瞰力を鍛えるために「物語を語る」ことは、
俯瞰力を養成の素地になっているとも思います。
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